今の会社には、二種類の人間がいます。
必死に泥を被り、上流の曖昧さを現場で食い止めようとする一握り。
そして、その横でぬるま湯に浸かり続ける、その他大勢です。
上流工程から降りてくる指示は、いつも抽象的で、責任の所在が曖昧です。
そのツケは必ず末端に回り、現場は火消しに追われ続ける。
私は、のほほんとした一次側の人間を横目で見ながら、
どこかでこの緩さに甘えていました。
「適当に流していればいい。
どうせ頑張っても、この組織は変わらない」
そう自分に言い聞かせ、
評価を落とさない程度に手を抜き、波風を立てない立ち回りを選んでいた時期があります。
平穏という名の停滞。
摩擦を避け、責任を引き受けず、
給料と引き換えに思考を止める生活でした。
そんな私の慢心を見透かすように、
仕事のできる同僚から、ある日、容赦のない指摘を受けました。
その瞬間、自分が何も説明できない人間になっていることに気づき、言葉を失いました。
自分は何を考え、
なぜそう判断し、
これから何を選ぶつもりなのか。
それを自分の言葉で語れない。
その事実が、胸の奥に深く突き刺さりました。
このままではいけない。
理屈ではなく、直感でそう感じました。
言語化する力を磨くことは、
単なる仕事術の話ではありません。
それは、自分の人生のハンドルを、もう一度自分の手に取り戻す行為でした。
私は、夜の過ごし方を変えました。
家でYouTubeを垂れ流し、ゲームに時間を溶かす生活をやめた。
代わりに、AIとの壁打ちを始め、
自分の中に溜まっていた曖昧な違和感や怒りを、言葉として掘り出し、ブログに残すようになりました。
孤独で、正直しんどい作業です。
誰にも評価されず、
結果が出る保証もない。
それでも、脳が別の回路で動き始める感覚は、
これまで味わったどんな娯楽よりも、はっきりとした手応えを残しました。
もちろん、昼間の仕事が楽になったわけではありません。
今も私は、皺寄せの末端に立ち、全力で泥を被っています。
仕事が終わる頃には、文字通りクタクタです。
ただ、一つだけ決定的に違うことがあります。
かつてのような、腐った疲労が残らなくなりました。
評価を落とさないために手を抜いた一日と、
自分の判断で全力を出し切った一日では、
体に残る疲れの質がまったく違う。
全力を使い切った日には、
納得だけが残ります。
一週間を走り抜けた金曜日の夜。
家で最初の一杯を喉に流し込む、その瞬間。
あのビールの味こそが、私にとっての納得の証明です。
もし、波風を避け、
評価を落とさない立ち回りを続けたまま週末を迎えていたら、
あの一杯は、ここまで旨くはならない。
自分を使い果たした者だけが味わえる、曇りのない充実感。
それが、私が人生の後半戦で守りたい感覚です。
私が捨てた平穏とは、
「評価を落とさずに済む立ち回り」でした。
そして、私が選んだ納得とは、
翌日も同じ判断を繰り返す覚悟を引き受けることです。
40代、本厄。
私はこれからも、曖昧な言葉に唾を吐き、
具体性のない空気に抗い続けます。
理解されない孤独も、
評価が下がる可能性も、
自分を律し続ける厳しさも、
すべては納得を得るためのコストです。
平穏という名の退屈に安住せず、
摩擦のある場所で、自分の言葉を研ぎ澄ませていく。
それが、私の選んだ生き方です。
そして今、私は父親になりました。
正直に言えば、
父になったことで、私は強くなったわけではありません。
むしろ、納得を捨てるための言い訳を、無限に持てる立場になりました。
だからこそ、私はあえて逆を選びます。
いつか1歳の息子が、私の背中を見る日が来たとき。
そこに映るのが、
組織に飼いならされ、
自分の判断を放棄した男であってほしくはありません。
自分の足で立ち、
自分の言葉で考え、
自分の選択の代償を引き受けながら生きる。
一杯の酒を、心の底から旨いと言える。
納得の中に生きる父親でありたい。
それが、私が選んだ人生後半戦です。


コメント