40代、年下への嫉妬が消えない。会社で一番見たくなかった本音

種言

会議室を出た瞬間、胃の奥が熱くなった。

年下の同僚が、私が3年がかりで通せなかった案件を、半年で前に進めていた。みんなが拍手していた。私も手を叩いた。叩きながら、手のひらの内側だけが冷たかった。

おめでとう、と言った。そう思っていた部分も、たしかにあった。でも家に帰る電車の中で、その「おめでとう」を何度も思い出して、自分で気持ち悪くなった。

嫉妬していた。40代にもなって、年下に。


嫉妬は「悪いもの」だと処理してきた

ずっと、嫉妬は消すべきものだと思っていた。

人格の汚れた部分。大人なら持ってはいけない感情。湧いてきたら、見ないふりをして、急いで蓋をする。「あの人はあの人、自分は自分」と言い聞かせて、なかったことにする。

このブログでも、私は何度か「比較をやめた」という話を書いてきた。自分の軸ができたら、人と比べなくなった、と。

半分は本当だ。でも、半分は嘘だった。

比べることは、たしかに減った。でも嫉妬は、減っていなかった。むしろ、隠すのがうまくなっただけだった。拍手しながら手のひらが冷たくなる、あの技術だけが上達していた。

40代の嫉妬は、20代のそれより始末が悪い。20代の嫉妬には「まだこれから」という言い訳がある。40代の嫉妬には、それがない。「もう追いつけないかもしれない」という事実が、感情の下に貼りついている。だから、よけいに見たくない。


蓋をするほど、腐っていった

蓋をした嫉妬は、消えなかった。

胃の奥で、静かに発酵していった。年下の同僚の前で、必要以上に余裕のある先輩を演じる。「いやあ、若いっていいね」と笑ってみせる。その笑顔の温度が、自分でわかる。1度くらい、低い。

家に帰ると、妻に職場の愚痴をこぼす。その同僚の「詰めの甘いところ」を、わざわざ探して話している自分がいた。粗を見つけると、少しだけ呼吸が楽になる。その「楽になった」という感覚が、いちばん惨めだった。

嫉妬を消そうとして、私がやっていたのは、相手を小さくすることだった。

これは、誰にも言えなかった。言えば、自分が小さい人間だと確定する気がした。だから一人で抱えて、一人で発酵させていた。物販で300万を溶かしたときと、構造が似ている。見ないふりをすれば現実が止まる気がして、結局、現実だけが静かに進んでいく。


ある夜、嫉妬の中身を開けてみた

ある夜、もう限界だった。

いつものように妻に同僚の粗を話そうとして、口を開けて、やめた。これを今夜も言ったら、自分はもう、そういう男になる。息子がもう少し大きくなったとき、隣の家の誰かを腐すことで一日の溜飲を下げる父親の背中を、この子は見て育つのか。

その晩、スマホのメモに、嫉妬の中身を全部書き出した。きれいにじゃない。湧いてきた順番に、そのまま。

「あいつが羨ましい」。 なぜ。 「評価されているから」。 それだけか。 「……違う。あいつは、自分が前に進んでいる感覚を持っている。俺にはそれがない」。

書いていて、手が止まった。

私が嫉妬していたのは、同僚の「評価」じゃなかった。同僚が持っている「前に進んでいる感覚」だった。私が、ここ何年も、職場で一度も味わえていないものだった。

嫉妬は、相手を見ているようで、自分の欠落を指していた。


嫉妬は、欲望の在りかを教える方位磁石だった

ここで、いつもの自分なら「だから怖かったんだ」で終わらせていたと思う。

でも、今回は違った。怖さじゃなかった。もっと単純で、もっと生々しいものだった。

私は、前に進みたかった。ただ、それだけだった。

嫉妬は、私が「もうどうでもいい」と思い込もうとしていた欲望を、勝手に掘り起こしてくる感情だった。本当にどうでもよければ、嫉妬は湧かない。嫉妬が湧くのは、まだ欲しいからだ。諦めたふりをしているだけで、本当は手放していないものを、嫉妬だけが正直に教えてくる。

蓋をするというのは、その正直な信号を、自分で握りつぶす行為だった。

このブログで前に書いた「損切りできない性格」と同じだった。物販では欠陥だった性格が、ブログでは動力になった。場所が変わると、同じものが反対の働きをする。嫉妬も同じだったのかもしれない。会社という場所では、嫉妬は「相手を小さくする毒」にしかならなかった。でも、それを夜のメモに移した瞬間、「自分が何を欲しがっているか」を教える方位磁石に変わった。

変えるべきは、感情じゃなかった。感情の置き場所だった。


嫉妬を方位磁石として読むようになって

それから、嫉妬が湧くたびに、消そうとするのをやめた。

代わりに、メモを開いて、こう問うようになった。「今、何が羨ましい。その羨ましさは、俺の何を指している」。

同僚の評価が羨ましいとき、欲しかったのは評価じゃなくて「進んでいる感覚」だった。その問いの答えが出た夜、私は粗探しのメモを閉じて、別のメモを開いた。羨ましさの中身を、そのまま記事の書き出しにした。「会議室を出た瞬間、胃の奥が熱くなった」——この文章の一行目は、その夜の嫉妬そのものだ。

つまり、いま読まれているこの記事自体が、嫉妬を方位磁石として読み直した最初の一本になっている。同じ熱を、前に少し進んだ気がしている。以前、比べることの代償について書いたときは、まだここまで来られていなかった(比べ続けた10年間に、私が払っていたもの)。あのときは比較を「やめる」話だった。今回は、嫉妬を「使う」話だ。

正直に書く。職場の嫉妬が、これで消えたわけではない。今でも、年下が褒められれば胃の奥は熱くなる。手のひらは冷たくなる。性格は、たぶん死ぬまで変わらない。

ただ、その熱を、家で誰かの粗探しに変えることは、なくなった。同じ熱を、夜のメモへ、そして一本の記事へ回すようになった。それだけだ。それだけのことが、夜の質を変えた。


まとめ

嫉妬は、消す感情じゃなかった。読む感情だった。

嫉妬しない人間になりたかったわけじゃない。嫉妬を、自分の欲望の在りかとして読める人間になりたかった。向き不向きはある。直視するのはしんどいし、粗探しで溜飲を下げるほうが、ずっと楽だ。だから、これは万人に勧められる話じゃない。

ひとつだけ、はっきりしたことがある。あの晩、口を開きかけてやめたのは正しかった。隣の家の誰かを腐すことで一日を終える背中を、息子に見せずに済んだ。私が残したいのは、嫉妬しない父親の顔じゃない。嫉妬を、ちゃんと自分の燃料に変換してみせる背中のほうだ。

もしあなたが今夜、誰かへの嫉妬で胃の奥を熱くしているなら。

その熱を消そうとする前に、一度だけ聞いてみてほしい。

その嫉妬は、あなたの「何が欲しい」を、指していませんか。

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