夜10時。
私はまた、AIに問いかけていた。
「この感覚を、うまく言葉にしてほしい」
数秒後、整然とした文章が生成される。確かに、私が言いたかったことに近い。でも何かが違う。その「何か」を言語化しようとするたびに、うまく言葉にできず消えてしまう。
気づいたら、もう2時間が経っていた。書いたはずなのに、書いた気がしない。
「自分の声」はどこへ行ったのか
2月中頃からClaude Codeを使い始めて、1ヶ月半が経つ。
効率は上がった。文字数も増えた。出力されるテキストのクオリティは、以前の私が一人で書いていたものより、間違いなく整った文章だ。
でも、ある夜気づいた。
記事を書きながら「あ、そういうことだったのか」と思う瞬間が、消えていた。書いている途中で思考が予期せぬ方向に走り出し、書き始めた時点では想定していなかった結論にたどり着く。あの感覚がなくなっていた。
AIに投げれば、苦労せずに整った言葉が返ってくる。だから私は、その「整った言葉」を選ぶだけの人間になっていた。
書く、というより、添削する。評価する。選ぶ。
AIと記事を書くと驚くことがなくなる
この記事も、AIとの対話の中で書いている。
「AIと記事を書くと驚くことがなくなる」という記事を、AIと書いている。この矛盾は、読んでいるあなたにはすでにバレているかもしれない。
最初、私はこの矛盾から目を背けようとした。でも、逃げても意味がない。この矛盾そのものが、私がこの1ヶ月半で体験してきたことの正直な姿だ。
私はAIを使いながら、AIへの依存を問い続けている。
その問いが本物かどうかは、私にもまだわからない。
300万を失ったときと、同じ構造だった
物販で300万円を失ったことがある。
「うまくいっている人の真似をした」のが原因だった。当時の私は情報を大量に摂取していた。成功者のブログ、YouTube、有料コミュニティ。でも思考はしていなかった。
答えを拾い集めるだけで、問いに向き合っていなかった。
その失敗から学んだと思っていた。
でも今の私は、同じ構造を別の形で繰り返していた。
AIが答えを出してくれるから、私は問いを持たなくていい。そう思い込んでいた。
情報を大量摂取していただけの当時と、AIに言語化を委託している今は、根の部分でつながっている。どちらも「考えているように見えて、考えていない」状態だ。
言語化は、思考の最後の一歩にすぎない
会議で上司の言葉に引っかかった日があった。
「効率」という言葉の使い方が、なんか気持ち悪かった。でも理由がわからない。その夜、私はすぐにAIに投げた。「この違和感を言語化して」と。
数秒後、整然とした分析が返ってきた。「それは〇〇という心理的反応で……」
読んだ瞬間、違和感が消えた。上書きされた。
でも何週間か後、同じ会議で同じ言葉を聞いたとき、また気持ち悪かった。私は何も掘り下げていなかった。AIの言葉を「わかった」と勘違いしていただけだった。
思考には段階がある。何かに引っかかる力。その引っかかりを手放さず、輪郭をなぞり続ける粘り強さ。そして最後に、言葉を見つけること。
AIが担えるのは、最後の一歩だけだ。
引っかかる力はAIには持てない。なぜなら、それは身体を持って生きてきた時間の蓄積から生まれるからだ。40年間、組織の中で摩耗し、副業で300万を失い、それでも諦めきれない何かを抱えて夜のデスクに向かう。その全ての経験が、「何かに引っかかる」という一瞬を生む。
引っかかりを手放さずにいられるのは、それが「自分の問題」だからだ。他人事の問いを、人間は掘り下げ続けられない。
私はいつの間にか、その二つをすっ飛ばして、AIに最後の一歩だけを求めていた。
驚きのない文章は、死んでいる
エッセイという言葉の語源は「試みる」だと聞いたことがある。
試みるということは、結果がわからないということだ。書き始めた時点では、どこへ向かうかわからない。それでも書き続ける中で、何かが見えてくる。その「何かが見えてくる」瞬間の驚きが、エッセイの核だと私は思っている。
AIはその驚きを生めない。
なぜなら、驚きとは「自分の予測が裏切られること」だからだ。AIに予測はない。期待もない。ただ、確率的に最もふさわしい言葉の連なりを生成するだけだ。そこに予期せぬ発見は生まれない。
驚きのない文章は、死んでいる。
読む人を動かすのは、情報量でも文章の完成度でもない。書き手が書きながら感じた驚きの残り香だ。
この1ヶ月半で量産してきた記事のいくつかを読み返した。整っていたが、驚きは少なかった。
問いを持つことが、希少になっていく
効率と成果の言語が支配する世界に、私は40年以上いる。
会社では「なぜそう思うのか」より「どうすれば達成できるか」が問われる。副業界隈では「内省」より「マネタイズ」が語られる。SNSでは「問い」より「答え」がシェアされる。
そんな世界で、「なぜこれが気になるのか」と問い続けることは、非効率だ。
でも、その非効率さの中にこそ、私にしか書けないものが生まれる気がしている。
40代のサラリーマンが夜に内省を書く意味は、情報を届けることじゃない。問いの言語が失われていく時代に、問いそのものを残すことだ。
あの矛盾に気づいた夜、私はAIへの問いかけをやめて、自分のノートを開いた。
まだ何も書けなかった。でも、久しぶりに、何かに引っかかっていた。
「収益」という言葉への、名前のつかない違和感だった。
この引っかかりが、どこへ向かうのか。
私にも、まだわからない。


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