他人の給料、キャリア、家、子どもの学校。
ずっと誰かと比べながら生きてきました。
でも40代のある日、気づいたらそれが止まっていました。
意志の力でやめたわけではありません。
静かに、自然に、止まっていました。
なぜそうなったのか、自分なりに考えてみました。
比べることが「デフォルト」だった
思い返せば、物心ついたころから比べていました。
テストの点数、足の速さ、持っているゲームの数。
学生時代はそれが当たり前で、比べることで自分の位置を確認していました。
社会人になっても同じでした。
同期の昇進速度、後輩の給料、同年代のSNSに流れてくる
「マイホーム購入しました」
「独立しました」
「年収○○になりました」
見るたびに、胃のあたりがざわつきました。
正直に言えば、少しだけ負けた気がしていました。
うれしそうな顔をしながら、内側では「自分はまだここか」と思っていました。
比べることは悪いことだと、頭ではわかっていました。
「人は人、自分は自分」という言葉も知っていました。
でも、知っていることと、やめられることは、まったく別の話でした。
やめようとして、やめられなかった
30代のころ、比較をやめようと意識的に取り組んだことがあります。
見ると比べてしまうためSNSを消しました。
でも、職場の雑談の中にも比較の種は転がっていました。
「あいつ、もう課長になったらしいよ」
「○○さんの旦那、転職して年収上がったって」
消せない現実の中に、比較はいくらでも潜んでいました。
結局、「やめる」という方向ではうまくいきませんでした。
比較は外からやってくるのではなく、自分の内側から発生していたからです。
外の情報を遮断しても、比べようとする自分がいる限り、別の何かと比べるだけでした。
40代で起きた、静かな変化
転機は、劇的なものではありませんでした。
ある時期から、「書くこと」を始めました。
日記とも違う、誰に見せるわけでもない、自分の考えをそのまま言葉にする作業です。
最初は、何も書けませんでした。
ノートを開いたまま、数分止まる日もありました。
それでも続けているうちに、少しずつ自分の輪郭が見えてきました。
自分が何を大切にしているのか。
何に腹が立って、何に安心するのか。
どんな未来を、本当は望んでいるのか。
その輪郭がはっきりするにつれて、他人の動向への関心が、自然に薄まっていきました。
比較が止まったのは、比べることをやめたからではありません。
自分の人生に、本気で興味が出てきたからでした。
他人のレースを観客席で眺める余裕がなくなった、とも言えます。
自分のコースを走るのに、少しずつ夢中になっていったからです。
「比べる」の正体は「輪郭のなさ」だった
今になって思います。
比較をやめられなかったのは、意志が弱かったからではありません。
自分の輪郭がぼんやりしていたから、他人の輪郭で自分を測るしかなかったのだと思います。
地図を持っていない人間は、隣の人がどこにいるかで自分の位置を確認するしかありません。
でも、自分の地図を持てば、他人の位置は関係なくなります。
40代になって比較が止まったのは、年を取って丸くなったからでも、悟りを開いたからでもありません。
少しずつ、自分の地図を手に入れてきたからです。
その地図は、思考を言葉にすることで、少しずつ描かれていきます。
まとめ
比較をやめようとするのは、逆効果なのかもしれません。
それより先に、
「自分が何者で、どこへ向かいたいのか」
これを少しずつ言葉にしていく。
その作業が積み重なると、気づいたときには、他人との比較が静かに止まっています。
明日は、比べ続けた時間に払ってきた「本当のコスト」について書きます。
——正直、安くない代償でした。
関連note記事はこちら
▶ 思想の原点を知りたい方はこちら
https://note.com/yagosennin/n/n6416fa617d2f
▶ 私の挫折と再出発の記録
https://note.com/yagosennin/n/nd3823c62b486
▶ 【お得なセット販売開始しました】
https://note.com/yagosennin/m/m906622ed3667


コメント